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心に響かない野田 [政治経済]
昨日のニュース9で野田総理が出演していた。
中学校でがれき処理の授業をして「がれき拒否はかわいそうじゃん」とか、意味不明の報道をするNHKなる放送局とはそもそも契約をしていないので受信料も払っていないのですが、電波は入ってくるので一応目を通すわけですが、昨日のニュース9もひどいものがありました。
野田総理という人は、就任当時は候補者5人の中では「無難」な人選でした。あの当時は、「バカ」がやった方がまだましではないか?というギャグがありました。即ち、バカ=馬鹿=鹿野または馬渕というわけです。鹿野馬渕はどちらかというと原発反対派ですから、馬鹿に任せた方がよかったのかもしれません。
無難な野田総理は昨日もニュースで無難で遠まわしな発言を繰り返し、見ている者の心にまったく響きませんでした。「周辺自治体にも十分な説明をし・・・orz」「電力需要が厳しいという状況を・・・」「将来的には脱原発依存・・・」「経済に与える影響も・・・」「最終的には政治が責任を・・・」などなどですが、一体何を言いたいのでしょうか。要するに、経済界の言いなりになって電力が足りないと本気で信じ込み、原発を再稼動させたいだけなのは明らかなのですが、大越キャスターの突っ込みに直接答えることは無く、無理矢理「誠意」でしめそうとしていますが、何もクリアに説明されていないところに、この政権で本当に大丈夫だろうかという不安を感じざるをえません。
周辺自治体にいくら十分な説明をしても、説明そのものが間違っていれば了承を得られるはずがありません。避難訓練だとかヨウ素剤を配るという話もまったくありません。安全対策(もっとも、安全対策をしたからといって本当に安全かどうかは?なのですが)をまともにやると数年かかるのに、それを待たずに計画が策定されていればいいなどといって誰が信じるでしょうか?。建物に例えれば、あの姉葉建築士の物件に住んでいる人も、後で耐震強化をするからとりあえず住み続けていいといっているようなものです。尤も、いままで数十年重大な事故は起こらなかったのでおそらく重大な事故は起こらないのでしょうが、事の本質はそこではありません。今問われているのは、原発の安全性どうのこうのよりも、原発そのものの存在意義なのです。
足りないという試算以外にも、飯田氏のいうように足りるという試算もあり、仔細にみてみると「足りる」可能性が高いと思います。原発なしでも足りるのであれば、現時点で存在そのものの賛否が分かれ(しかも否定的な意見が圧倒的に多い)ている原発を今動かす意味はまったくありません。野田総理が何か言えば言うほど民主党の支持率がさがっていきます。そこにきて任期一杯まで解散をするつもりはないというのです。日本お先真っ暗です。
この夏、再稼動できないか、政治判断?でゴリ推して再稼動するかの2つに1つです。もし、大飯の2基の約250万kWを稼動させるだけで電気が足りるのであれば、すくなくとも需給関係だけでみれば原発は不要ということになります。なにせ、日本全国で1億kW近く必要な中でたったの250万kWで2.5%に過ぎないのですから、原発の敷地内に新世代の火力発電所をリプレースすればいいだけということになります。原発推進派は、「古い老朽火力を稼動させるのは危険だ」といいます。それに関しては、間違いではないので、原発縮小と同時に、火力のリプレースも進めていかなければなりません。燃料費が経済を圧迫するというのもまったく当たらず、日本経済はそんなにヤワではありません。
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中学校でがれき処理の授業をして「がれき拒否はかわいそうじゃん」とか、意味不明の報道をするNHKなる放送局とはそもそも契約をしていないので受信料も払っていないのですが、電波は入ってくるので一応目を通すわけですが、昨日のニュース9もひどいものがありました。
野田総理という人は、就任当時は候補者5人の中では「無難」な人選でした。あの当時は、「バカ」がやった方がまだましではないか?というギャグがありました。即ち、バカ=馬鹿=鹿野または馬渕というわけです。鹿野馬渕はどちらかというと原発反対派ですから、馬鹿に任せた方がよかったのかもしれません。
無難な野田総理は昨日もニュースで無難で遠まわしな発言を繰り返し、見ている者の心にまったく響きませんでした。「周辺自治体にも十分な説明をし・・・orz」「電力需要が厳しいという状況を・・・」「将来的には脱原発依存・・・」「経済に与える影響も・・・」「最終的には政治が責任を・・・」などなどですが、一体何を言いたいのでしょうか。要するに、経済界の言いなりになって電力が足りないと本気で信じ込み、原発を再稼動させたいだけなのは明らかなのですが、大越キャスターの突っ込みに直接答えることは無く、無理矢理「誠意」でしめそうとしていますが、何もクリアに説明されていないところに、この政権で本当に大丈夫だろうかという不安を感じざるをえません。
周辺自治体にいくら十分な説明をしても、説明そのものが間違っていれば了承を得られるはずがありません。避難訓練だとかヨウ素剤を配るという話もまったくありません。安全対策(もっとも、安全対策をしたからといって本当に安全かどうかは?なのですが)をまともにやると数年かかるのに、それを待たずに計画が策定されていればいいなどといって誰が信じるでしょうか?。建物に例えれば、あの姉葉建築士の物件に住んでいる人も、後で耐震強化をするからとりあえず住み続けていいといっているようなものです。尤も、いままで数十年重大な事故は起こらなかったのでおそらく重大な事故は起こらないのでしょうが、事の本質はそこではありません。今問われているのは、原発の安全性どうのこうのよりも、原発そのものの存在意義なのです。
足りないという試算以外にも、飯田氏のいうように足りるという試算もあり、仔細にみてみると「足りる」可能性が高いと思います。原発なしでも足りるのであれば、現時点で存在そのものの賛否が分かれ(しかも否定的な意見が圧倒的に多い)ている原発を今動かす意味はまったくありません。野田総理が何か言えば言うほど民主党の支持率がさがっていきます。そこにきて任期一杯まで解散をするつもりはないというのです。日本お先真っ暗です。
この夏、再稼動できないか、政治判断?でゴリ推して再稼動するかの2つに1つです。もし、大飯の2基の約250万kWを稼動させるだけで電気が足りるのであれば、すくなくとも需給関係だけでみれば原発は不要ということになります。なにせ、日本全国で1億kW近く必要な中でたったの250万kWで2.5%に過ぎないのですから、原発の敷地内に新世代の火力発電所をリプレースすればいいだけということになります。原発推進派は、「古い老朽火力を稼動させるのは危険だ」といいます。それに関しては、間違いではないので、原発縮小と同時に、火力のリプレースも進めていかなければなりません。燃料費が経済を圧迫するというのもまったく当たらず、日本経済はそんなにヤワではありません。
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3枚目のサインCD [クラシック音楽]
皆さん、こんばんは。
世界的なピアニストのイーヴォ・ポゴレリチ(パンフにはポゴレリッチと表記)の来日公演は本日の名古屋で終了です。金沢・青森(六ヶ所村)・東京×2、名古屋の計5公演だったとのことです。今日の3時に間に合うべく、学会中でありながら13時には大阪を出て、ぎりぎり15時前に到着しました。
本日の公演はショパン+リストです。ことに、ショパンのピアノソナタ2番、リストのピアノソナタロ短調の2曲の組み合わせで、この人のもっとも得意とするところの非常に内省的な楽曲です。加えて、リストのメフィスト・ワルツ第1番、ショパンのノクターンOp48-1の2曲が挿間されました。しらかわホールは久々に行きましたが、珍しく超満員でした。さすがに日本で人気のあるピアニストだけのことはあります。
ショパンの2番(葬送)は、CD収録のものよりも更にテンポ・ダウンしていて、ついていくのがなかなか大変です。CDの第二楽章がとても好きな演奏だったので、今回のテンポダウンでこの楽章のダイナミズムが失われていまひとつしっくり来なかったのですが、さすがにライブで聴くとそのものものしさが刺さってくるようでした。3楽章が素晴らしかった。一方のリストも凄い演奏だったようなのですが、ショパンに比べるとなじみの薄い楽曲なので、最後は半分睡眠鑑賞になってしまいました。今日は学会帰りで結構歩いたので、体調が万全でなかったのはいかにも残念です。
ということで、1.5万円もした割には自分自身のなかでは消化不良で残念でした。それにしても、まだ53歳なのですが、CDジャケット写真に比べると老けた感は否めません。尤も、ここ10数年新譜を出していないので当然ですし、私自身も老けたので他人のことは言えませんが、白髪も増えましたしなにか疲れていそうでした。
念のため、ハイドンのピアノソナタ19+46番のCDと、スカルラッティのソナタ集のCDの2枚を持っていきました。この2枚は彼のディスコグラフィーの中でも相当出来のいいほうかと思うのですが、輸入盤であることに加えて、背景色が明るいので、もしサイン会でもあれば好適だという思惑があったのです。もちろんサイン会はなく、帰ろうと思っていたのですが、楽屋出入口にたかる人々に混じってお見送りに参加しました。もっとも、このような行為は演奏者にとってはあまり快いものではないのかもしれません。実際に出てきた彼は、大曲演奏後で大変お疲れのように見えましたし、カメラのシャッターには大変不快そうにされていました。
真のプロはファンを大切にするものですが、勿論彼も例外ではなく、群れる聴衆のサインに数十名応じてくださったので、どさくさに紛れて列に並びサインをゲットしてきました。事務所の方がいろいろと取り成していましたが、一部の心無いファンのシャッター音にはいやそうにしていました。もっとも、サインを無理矢理ゲットした私も心ないファンなのかもしれません。ただ、こんなチャンスも滅多にあるものではありませんし、ポゴレリチのCDをほぼすべて所有している私ですから、このくらいは・・・と勝手に思ったのです。
かくして、今手元にはサイン入りのハイドンのCDがあります。安っぽい国内盤ではなく輸入盤ですので、結構な価値があります。しかし、上記のような次第で、悪いことをしたかもしれないと思うと何となく複雑な心境でもあります。これでサインCDは3枚目で、1枚目は世界的フルート奏者のエマニュエル・パユの「バッハ フルート協奏曲全曲 2枚組」、2枚目は世界的トロンボーン奏者のジョセフ・アレッシのCDです。サインCDというのは、所有の喜びがハンパないものがあります。前2枚は正式なサイン会だったので和気藹々とゲットしましたが、3枚目は上記のような次第で若干いわくつきにはなってしまいました。
生演奏もいいのですが、ポゴレリチの場合はCDを聴き込むのもおすすめです。あまり新譜を出さないのは、それだけ納得のいく完璧なものであるからなのだと思うのですが、聞けば聞くほどに曲の魅力に迫ってきます。いかにも「重い」演奏で敬遠される向きもありますが、ハイドンとスカルラッティは古典とは思えないほどウィットに富み軽妙で、とても新鮮な演奏です。
世界的なピアニストのイーヴォ・ポゴレリチ(パンフにはポゴレリッチと表記)の来日公演は本日の名古屋で終了です。金沢・青森(六ヶ所村)・東京×2、名古屋の計5公演だったとのことです。今日の3時に間に合うべく、学会中でありながら13時には大阪を出て、ぎりぎり15時前に到着しました。
本日の公演はショパン+リストです。ことに、ショパンのピアノソナタ2番、リストのピアノソナタロ短調の2曲の組み合わせで、この人のもっとも得意とするところの非常に内省的な楽曲です。加えて、リストのメフィスト・ワルツ第1番、ショパンのノクターンOp48-1の2曲が挿間されました。しらかわホールは久々に行きましたが、珍しく超満員でした。さすがに日本で人気のあるピアニストだけのことはあります。
ショパンの2番(葬送)は、CD収録のものよりも更にテンポ・ダウンしていて、ついていくのがなかなか大変です。CDの第二楽章がとても好きな演奏だったので、今回のテンポダウンでこの楽章のダイナミズムが失われていまひとつしっくり来なかったのですが、さすがにライブで聴くとそのものものしさが刺さってくるようでした。3楽章が素晴らしかった。一方のリストも凄い演奏だったようなのですが、ショパンに比べるとなじみの薄い楽曲なので、最後は半分睡眠鑑賞になってしまいました。今日は学会帰りで結構歩いたので、体調が万全でなかったのはいかにも残念です。
ということで、1.5万円もした割には自分自身のなかでは消化不良で残念でした。それにしても、まだ53歳なのですが、CDジャケット写真に比べると老けた感は否めません。尤も、ここ10数年新譜を出していないので当然ですし、私自身も老けたので他人のことは言えませんが、白髪も増えましたしなにか疲れていそうでした。
念のため、ハイドンのピアノソナタ19+46番のCDと、スカルラッティのソナタ集のCDの2枚を持っていきました。この2枚は彼のディスコグラフィーの中でも相当出来のいいほうかと思うのですが、輸入盤であることに加えて、背景色が明るいので、もしサイン会でもあれば好適だという思惑があったのです。もちろんサイン会はなく、帰ろうと思っていたのですが、楽屋出入口にたかる人々に混じってお見送りに参加しました。もっとも、このような行為は演奏者にとってはあまり快いものではないのかもしれません。実際に出てきた彼は、大曲演奏後で大変お疲れのように見えましたし、カメラのシャッターには大変不快そうにされていました。
真のプロはファンを大切にするものですが、勿論彼も例外ではなく、群れる聴衆のサインに数十名応じてくださったので、どさくさに紛れて列に並びサインをゲットしてきました。事務所の方がいろいろと取り成していましたが、一部の心無いファンのシャッター音にはいやそうにしていました。もっとも、サインを無理矢理ゲットした私も心ないファンなのかもしれません。ただ、こんなチャンスも滅多にあるものではありませんし、ポゴレリチのCDをほぼすべて所有している私ですから、このくらいは・・・と勝手に思ったのです。
かくして、今手元にはサイン入りのハイドンのCDがあります。安っぽい国内盤ではなく輸入盤ですので、結構な価値があります。しかし、上記のような次第で、悪いことをしたかもしれないと思うと何となく複雑な心境でもあります。これでサインCDは3枚目で、1枚目は世界的フルート奏者のエマニュエル・パユの「バッハ フルート協奏曲全曲 2枚組」、2枚目は世界的トロンボーン奏者のジョセフ・アレッシのCDです。サインCDというのは、所有の喜びがハンパないものがあります。前2枚は正式なサイン会だったので和気藹々とゲットしましたが、3枚目は上記のような次第で若干いわくつきにはなってしまいました。
生演奏もいいのですが、ポゴレリチの場合はCDを聴き込むのもおすすめです。あまり新譜を出さないのは、それだけ納得のいく完璧なものであるからなのだと思うのですが、聞けば聞くほどに曲の魅力に迫ってきます。いかにも「重い」演奏で敬遠される向きもありますが、ハイドンとスカルラッティは古典とは思えないほどウィットに富み軽妙で、とても新鮮な演奏です。
感情論か、冷静な判断か [自然・環境]
皆さん、こんばんは?。
がれきの受け入れを拒否するなんて、日本人の絆はどこに行ってしまったんだ!というような風当たりの強い昨今ですが、先日の中日新聞(=東京新聞)にこれを論破する素晴らしいコラムが掲載されていました。詳細は忘れましたが、とにかくこの「絆」というようなワードを持ち込むことで人々の心を束縛して思考力を麻痺させることに主眼があるのであれば、「絆」などくそ食らえでしょう。広域処理に懸念を示す住民は果たして自分勝手なのでしょうか?。
感情が先行すれば、がれき受け入れを拒否するのは人道的にどうかということになります。しかし、冷静に考えれば、人々が拒否しているのはがれきそのものではなく、がれきに付着した放射能、より正確に言えば放射性物質なのです。これに関しても、「福島のがれきではなく、汚染されていないがれきなんだ」とか、「国の基準を大幅に(大幅?)下回っているんだから大丈夫だ」という人たちがいます。しかし、地図をみれば宮城や岩手が福島から相当近いことは明白ですし、今回の事故では愛知県東部まで放射能はばら撒かれたので、宮城・岩手のがれきが汚染されていないことはまずありません。また、国の基準もかなり恣意的に上がっていますが、例えば埋め立ての基準である8000ベクレル/kgには何の根拠もありません。そもそも100ベクレル/kgをこえる物質は従来「低レベル放射性廃棄物」として厳重な管理が義務付けられていたものです。いつからその80倍の物質を埋め立てても良くなったのか、納得のいく説明はありません。
しかも、前提として「がれき処理がすすまなければ復興も進まない」とか言いますが、がれきを処理してもそこはおそらく数年は更地のままでしょう。確かに前提の一部ではあるのでしょうけれども、そんなに急いで県外に搬出しなければいけない根拠も明確ではありません。しかも、今回の広域処理は全がれきの高々1-2割とか言われていますが、それだけがれきの搬出にはエネルギーを余剰に消費するわけです。「火力発電の燃料費が・・・」とか言う割りに、広域処理にかかる化石燃料に言及しないのはいかがなものでしょうか?。
以上、まとめますと、がれきの広域処理は「明らかに」汚染されていないものに限るべきであって、宮城・岩手のようなスポット状に線量の高いところもあるところで一部のサンプルを取り出して「基準以下」としたところで、搬出後に問題となることは明らかです。これは、安全と称されて市場に流通している食品から放射能が検出されたのと同様のことで、こと放射能に関しては、「疑わしきは罰せよ」という原則にのっとるべきであって、百歩譲っても岩手県北部地域に限られます。それでも更に念をいれて、広域と言っても東日本に限るべきで、微量とはいえ西日本にまで放射能をばら撒くべきではありません。具体的には、富山・岐阜・愛知以西は広域がれき処理をするべきではありません。しかも、遠ければ遠いほど、輸送にかかるエネルギーがバカになりません。
もちろん、広域処理ではなく、現地処理が望ましい。そのためであれば、いくら税金を使ってもよいと思います。そのうえで、焼却灰を埋め立てても本当に良いのであれば、どのような方法で埋め立てれば後世にわたって生物に影響がなく安全たりえるかなどの議論をしなければなりません。単純な埋め立てであれば、地下水にしみこんだりして環境を破壊するので、人々が近づかず、かつ放射性物質の漏洩のないような方法でなければなりません。
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私がこのようなことを書くのも、本日のNHKのニュースで、中学生の授業でがれき処理を取り扱ったということだそうなのです。その部分はみていないのですが、結論がどうあれ、このような問題を学校の教材で取り扱うこと自体が不適切です。受け入れを拒否するということは、今の報道を見る限りでは、いかなる理由によれ「悪」というふうにされているマスコミ的「空気」がある。そんな感情論が先行するなか、冷静な議論がなされにくい現状があるからです。感情論が先行すればやれ「助け合い」だ「絆」だと聞こえはいいのですが、それは本当に正しいことなのか?。冷静に考えれば放射性物質の問題や、そもそも広域処理は本当に必要なのか?ということを考える必要があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おなじような議論を「臓器移植」でやったらどうなるでしょうか?。日本では臓器移植を受けられずに死んでいく子供たちが沢山いるけれども、この子たちの命を救いたい!。確かに感情的にはその通りなのですが、そのためには犠牲となるもう一つの命がいるわけですし、そもそも脳死=人の死として無理矢理定義づけることは本当に正しいのか?。また、医療技術が進歩しすぎたため、本来救えない命(こういう表現が妥当かどうかということもありますが)を救うことが本当に当たり前なのか?。脳死移植は本当に倫理的に問題はないのか?。しかし一方、受ける側もあげる側も十分な納得の上であればウィンウィンの医療ですので、グレーゾーンであることは確かであるけれども絶対悪でも絶対善でもないわけです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
話が脱線しました。今日、あたかもがれき反対派が「感情的」に反対しているかのような言われ方をされますが、反対の人たちはどちらかというと左派・穏健派の人たちが多いので、感情だけで言っているわけではありません。集団ヒステリー呼ばわりもされますが、むしろ事物を冷静に勉強・判断した結果が「反対」なわけであって、現在東北のがれきがきわめてグレーゾーン(どちらかというとクロ)であることは明らかです。
もちろん、究極の冷静的判断はあります。①がれきの広域処理は、放射能に関して不明な点が多く、エネルギー浪費もハンパないことから基本的に行わない。②基本的に現地で焼却処理し、できれば放射性物質は可能な限り補足する。③ 焼却灰のうち、100Bg/kgを超えるものは放射性廃棄物なので、福島第一原発(廃炉)周囲に設置される予定の廃棄物処理施設で管理する。
残念ながら③のように、廃棄物を福島に押し付ける形にはなってしまうのですが、事故後居住不能エリアになってしまった以上、焼却灰はここにおいていく以外はなさそうです。
がれきの受け入れを拒否するなんて、日本人の絆はどこに行ってしまったんだ!というような風当たりの強い昨今ですが、先日の中日新聞(=東京新聞)にこれを論破する素晴らしいコラムが掲載されていました。詳細は忘れましたが、とにかくこの「絆」というようなワードを持ち込むことで人々の心を束縛して思考力を麻痺させることに主眼があるのであれば、「絆」などくそ食らえでしょう。広域処理に懸念を示す住民は果たして自分勝手なのでしょうか?。
感情が先行すれば、がれき受け入れを拒否するのは人道的にどうかということになります。しかし、冷静に考えれば、人々が拒否しているのはがれきそのものではなく、がれきに付着した放射能、より正確に言えば放射性物質なのです。これに関しても、「福島のがれきではなく、汚染されていないがれきなんだ」とか、「国の基準を大幅に(大幅?)下回っているんだから大丈夫だ」という人たちがいます。しかし、地図をみれば宮城や岩手が福島から相当近いことは明白ですし、今回の事故では愛知県東部まで放射能はばら撒かれたので、宮城・岩手のがれきが汚染されていないことはまずありません。また、国の基準もかなり恣意的に上がっていますが、例えば埋め立ての基準である8000ベクレル/kgには何の根拠もありません。そもそも100ベクレル/kgをこえる物質は従来「低レベル放射性廃棄物」として厳重な管理が義務付けられていたものです。いつからその80倍の物質を埋め立てても良くなったのか、納得のいく説明はありません。
しかも、前提として「がれき処理がすすまなければ復興も進まない」とか言いますが、がれきを処理してもそこはおそらく数年は更地のままでしょう。確かに前提の一部ではあるのでしょうけれども、そんなに急いで県外に搬出しなければいけない根拠も明確ではありません。しかも、今回の広域処理は全がれきの高々1-2割とか言われていますが、それだけがれきの搬出にはエネルギーを余剰に消費するわけです。「火力発電の燃料費が・・・」とか言う割りに、広域処理にかかる化石燃料に言及しないのはいかがなものでしょうか?。
以上、まとめますと、がれきの広域処理は「明らかに」汚染されていないものに限るべきであって、宮城・岩手のようなスポット状に線量の高いところもあるところで一部のサンプルを取り出して「基準以下」としたところで、搬出後に問題となることは明らかです。これは、安全と称されて市場に流通している食品から放射能が検出されたのと同様のことで、こと放射能に関しては、「疑わしきは罰せよ」という原則にのっとるべきであって、百歩譲っても岩手県北部地域に限られます。それでも更に念をいれて、広域と言っても東日本に限るべきで、微量とはいえ西日本にまで放射能をばら撒くべきではありません。具体的には、富山・岐阜・愛知以西は広域がれき処理をするべきではありません。しかも、遠ければ遠いほど、輸送にかかるエネルギーがバカになりません。
もちろん、広域処理ではなく、現地処理が望ましい。そのためであれば、いくら税金を使ってもよいと思います。そのうえで、焼却灰を埋め立てても本当に良いのであれば、どのような方法で埋め立てれば後世にわたって生物に影響がなく安全たりえるかなどの議論をしなければなりません。単純な埋め立てであれば、地下水にしみこんだりして環境を破壊するので、人々が近づかず、かつ放射性物質の漏洩のないような方法でなければなりません。
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私がこのようなことを書くのも、本日のNHKのニュースで、中学生の授業でがれき処理を取り扱ったということだそうなのです。その部分はみていないのですが、結論がどうあれ、このような問題を学校の教材で取り扱うこと自体が不適切です。受け入れを拒否するということは、今の報道を見る限りでは、いかなる理由によれ「悪」というふうにされているマスコミ的「空気」がある。そんな感情論が先行するなか、冷静な議論がなされにくい現状があるからです。感情論が先行すればやれ「助け合い」だ「絆」だと聞こえはいいのですが、それは本当に正しいことなのか?。冷静に考えれば放射性物質の問題や、そもそも広域処理は本当に必要なのか?ということを考える必要があります。
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おなじような議論を「臓器移植」でやったらどうなるでしょうか?。日本では臓器移植を受けられずに死んでいく子供たちが沢山いるけれども、この子たちの命を救いたい!。確かに感情的にはその通りなのですが、そのためには犠牲となるもう一つの命がいるわけですし、そもそも脳死=人の死として無理矢理定義づけることは本当に正しいのか?。また、医療技術が進歩しすぎたため、本来救えない命(こういう表現が妥当かどうかということもありますが)を救うことが本当に当たり前なのか?。脳死移植は本当に倫理的に問題はないのか?。しかし一方、受ける側もあげる側も十分な納得の上であればウィンウィンの医療ですので、グレーゾーンであることは確かであるけれども絶対悪でも絶対善でもないわけです。
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話が脱線しました。今日、あたかもがれき反対派が「感情的」に反対しているかのような言われ方をされますが、反対の人たちはどちらかというと左派・穏健派の人たちが多いので、感情だけで言っているわけではありません。集団ヒステリー呼ばわりもされますが、むしろ事物を冷静に勉強・判断した結果が「反対」なわけであって、現在東北のがれきがきわめてグレーゾーン(どちらかというとクロ)であることは明らかです。
もちろん、究極の冷静的判断はあります。①がれきの広域処理は、放射能に関して不明な点が多く、エネルギー浪費もハンパないことから基本的に行わない。②基本的に現地で焼却処理し、できれば放射性物質は可能な限り補足する。③ 焼却灰のうち、100Bg/kgを超えるものは放射性廃棄物なので、福島第一原発(廃炉)周囲に設置される予定の廃棄物処理施設で管理する。
残念ながら③のように、廃棄物を福島に押し付ける形にはなってしまうのですが、事故後居住不能エリアになってしまった以上、焼却灰はここにおいていく以外はなさそうです。
電力需給の恒常性について [自然・環境]
皆様、こんばんは。
5月5日に国内の原発稼動がゼロになりました。再稼動を求める経産省・電力会社に対し、多くの市民は原発の廃止(即・段階的含めて)を求めています。しかし、一方で推進派も「長期的には原発依存を減らしていくべきなのは確かだが・・・」と、意味不明のことを言っています。原発をやりたいならやりたいとはっきり言えないことに、市民の顔色を窺っている姿勢が丸見えです。再稼動の正当性のために、電力需給予測とか出されていますが、データの信憑性にも疑問があるようです。
ここでは、原発の是非はひとまず置いておいて、原発がなくなった時に本当に電力が足りるのか考えてみます。
「恒常性(ホメオスタシス)」という言葉は、高校生物でいやというほど目にするキーワードです。生物の体とはよく出来ているもので、増えると減らし、減ると増えるシステムが働いています。代表的なものはホルモンで、血糖値が上がるとインスリンが分泌され、下がるとグルカゴンが分泌されるといったようなものです。適度な恒常状態に保たれるように微妙なバランスでもって自動制御されており、これが破綻するといろんな疾病が起こるという風に理解されます。
原発事故後、市民の意識が高まり、家庭や職場での節電が大幅に進みました。これらは決して悪いことではありませんが、実は電力需要全体の中で家庭電力の占める割合はそれほど高くなく、本来であれば市民に節電を呼びかけるのは筋違いです。無駄な電力を使わないことは、精神論的には有意義ですが、熱中症になっても冷房を使わないというようなものは、本末転倒・全く無意味な行為です。
一方、大量の電力を使うのは家庭よりも産業界なので、こちらの対策が重要になってきます。ピーク時の電力料金を高くするという方法もありますが、これでは企業もたまったものではありません。輪番休業などのシフトや、いっそのこと猛暑時に休業にするなどの方法はよい方法であると思います。
また、3.11以降、自家発電装置がバカ売れしているようです。産業界の自衛手段ともいえるでしょうし、そもそも電気料金が諸外国より高すぎるわけで、高価な自家発電を導入してもペイしてしまうわけです。関西地方における自家発電分による需要減少は100万KWとも200万KWとも言われていますが、相当な量であることは間違いありません。
ローカル的には、中部電力がカザフスタンからの天然ガス供給を受けるといったニュースもありましたが、この中部電力のように、電力需給の心配のいらない近隣の電力会社からの融通も十分期待できます。原発稼動が一桁だったあの東京電力ですら、昨夏は東北電力に融通した実績があります。
これらを総合的に考えると、原発がなくなると、「電力会社の立場とすると」電力需給が厳しくなりますが、利用する立場においては「恒常性」がはたらき、ピーク電力が供給を上回ることは極めて考えにくくなります。
ここでいう恒常性とは、市民の意識による節電、産業界の自家発電増加、電力会社間の融通、揚水発電などです。さらに小手先のものとして、省エネ家電の増加や自然エネルギーの普及などもありますが、これらは費用対効果的には疑問点が多いことは考慮にいれる必要があると思われます。
細かい数字についてもいろいろ検討しましたが、実際には今夏電気が足りなくなるとは考えにくい。しかも、電力需給の恒常性が働けば、余った電気の有効利用につながります。電気が足りなくならないということは、経済に与える影響もそれほど大きくはありません。
本来であれば、需給を論じるのであれば、無駄な需要を減らすべきであって、違法賭博であるパチンコの廃止や、自販機は今の半分でも多いのではないかという議論もあってしかるべきです。パチンコが無くなれば、その分お金が有意義に使われて経済が振興しますし、自販機が半分になっても1台あたりの売り上げが増えますので企業の利益にはそれほど影響はありません。こういうところでも経済は微妙な恒常性を保ちます。大局的に物事をみれば、いかに「スマートに」電気を使うかが重要ではないでしょうか
5月5日に国内の原発稼動がゼロになりました。再稼動を求める経産省・電力会社に対し、多くの市民は原発の廃止(即・段階的含めて)を求めています。しかし、一方で推進派も「長期的には原発依存を減らしていくべきなのは確かだが・・・」と、意味不明のことを言っています。原発をやりたいならやりたいとはっきり言えないことに、市民の顔色を窺っている姿勢が丸見えです。再稼動の正当性のために、電力需給予測とか出されていますが、データの信憑性にも疑問があるようです。
ここでは、原発の是非はひとまず置いておいて、原発がなくなった時に本当に電力が足りるのか考えてみます。
「恒常性(ホメオスタシス)」という言葉は、高校生物でいやというほど目にするキーワードです。生物の体とはよく出来ているもので、増えると減らし、減ると増えるシステムが働いています。代表的なものはホルモンで、血糖値が上がるとインスリンが分泌され、下がるとグルカゴンが分泌されるといったようなものです。適度な恒常状態に保たれるように微妙なバランスでもって自動制御されており、これが破綻するといろんな疾病が起こるという風に理解されます。
原発事故後、市民の意識が高まり、家庭や職場での節電が大幅に進みました。これらは決して悪いことではありませんが、実は電力需要全体の中で家庭電力の占める割合はそれほど高くなく、本来であれば市民に節電を呼びかけるのは筋違いです。無駄な電力を使わないことは、精神論的には有意義ですが、熱中症になっても冷房を使わないというようなものは、本末転倒・全く無意味な行為です。
一方、大量の電力を使うのは家庭よりも産業界なので、こちらの対策が重要になってきます。ピーク時の電力料金を高くするという方法もありますが、これでは企業もたまったものではありません。輪番休業などのシフトや、いっそのこと猛暑時に休業にするなどの方法はよい方法であると思います。
また、3.11以降、自家発電装置がバカ売れしているようです。産業界の自衛手段ともいえるでしょうし、そもそも電気料金が諸外国より高すぎるわけで、高価な自家発電を導入してもペイしてしまうわけです。関西地方における自家発電分による需要減少は100万KWとも200万KWとも言われていますが、相当な量であることは間違いありません。
ローカル的には、中部電力がカザフスタンからの天然ガス供給を受けるといったニュースもありましたが、この中部電力のように、電力需給の心配のいらない近隣の電力会社からの融通も十分期待できます。原発稼動が一桁だったあの東京電力ですら、昨夏は東北電力に融通した実績があります。
これらを総合的に考えると、原発がなくなると、「電力会社の立場とすると」電力需給が厳しくなりますが、利用する立場においては「恒常性」がはたらき、ピーク電力が供給を上回ることは極めて考えにくくなります。
ここでいう恒常性とは、市民の意識による節電、産業界の自家発電増加、電力会社間の融通、揚水発電などです。さらに小手先のものとして、省エネ家電の増加や自然エネルギーの普及などもありますが、これらは費用対効果的には疑問点が多いことは考慮にいれる必要があると思われます。
細かい数字についてもいろいろ検討しましたが、実際には今夏電気が足りなくなるとは考えにくい。しかも、電力需給の恒常性が働けば、余った電気の有効利用につながります。電気が足りなくならないということは、経済に与える影響もそれほど大きくはありません。
本来であれば、需給を論じるのであれば、無駄な需要を減らすべきであって、違法賭博であるパチンコの廃止や、自販機は今の半分でも多いのではないかという議論もあってしかるべきです。パチンコが無くなれば、その分お金が有意義に使われて経済が振興しますし、自販機が半分になっても1台あたりの売り上げが増えますので企業の利益にはそれほど影響はありません。こういうところでも経済は微妙な恒常性を保ちます。大局的に物事をみれば、いかに「スマートに」電気を使うかが重要ではないでしょうか
The FSHQ [音楽]
皆様、こんばんは。
かつてジャズ喫茶があったころ・・・といっても私自身もそんな年代では毛頭ないわけですが、ジャズ喫茶の大人気盤にして幻の名盤と謳われている「The fabulous Slide Hampton Quartet」。またしても「幻の名盤」に惹かれて購入したわけですが、おそらくこのセールス文句はその通りで、名作であることは全く疑いがありません。
JJジョンソン、フラー、グリーン(ベニー)ときて、同時代のSlide Hamptonに行き当たることは必至。しかも、Slideというのが本名なのかどうか知らないが、Slide楽器であるトロンボーンを連想させる名前はトロンボーン奏者の目に間違いなく飛び込んでくる。
Slide Hampton (tb) Joachim Kuhn (p) Niels Henning Orsted Pedersen (b) Philly Joe Jones (dr)
トロンボーンだけのワン・ホーンのアルバムというのは実は結構珍しいもので、それが本アルバムを強く特徴づけています。折しも録音は1969年というアメリカ・ジャズ界の変遷期に、パリで録音されています。ワンホーンだからといってトロンボーンが常にリードするわけでなく、狂奔するトリオの手綱を引いているかのような立ち回りです。特にLPのA面の2曲は超ハイテンションでまったく休まる暇もありません。これだけの高い緊張感を味わえるというのはなかなか稀有な体験であります。
朗々と歌い上げるわけでもなく、かといって超絶技巧をひけらかすわけではない。では何故にトロンボーンでなければならないのか?という疑問もありますが、敢えてトロンボーンの音色・音域であるがゆえに魅力であることも事実ですし、ハンプトンの作編曲家としてのただならぬ才能を楽しむためのものであるともいえるかもしれません。
不況・デフレに加えて、ネット配信の影響でCD業界は斜陽といわれて久しいですが、だからこそ今日の1000円文化があります。低価格で名盤が楽しめるのは本当にいい時代だと思います。かつて「幻の名盤」を求めて大枚をはたいた方々は、今日このCDがたったの999円で買えることを嬉しいと思うか、それとも悔しいと思うでしょうか?。
ファンキーというよりもむしろエキセントリックな演奏を楽しみたい向きにはおすすめの一枚で、非常に硬質です。トロンボーンそのもののムーディーな感じを味わうのであればフラーやグリーンの演奏に接すればよく、本アルバムにはそういったものはないのですが、逆に本来のトロンボーンらしからぬ役割でもってこういうことをやるということで、他にない魅力がつまっているといえます。先の記事のフラーの作品と併せて、買って損の無い一枚、しかも999円です。
かつてジャズ喫茶があったころ・・・といっても私自身もそんな年代では毛頭ないわけですが、ジャズ喫茶の大人気盤にして幻の名盤と謳われている「The fabulous Slide Hampton Quartet」。またしても「幻の名盤」に惹かれて購入したわけですが、おそらくこのセールス文句はその通りで、名作であることは全く疑いがありません。
JJジョンソン、フラー、グリーン(ベニー)ときて、同時代のSlide Hamptonに行き当たることは必至。しかも、Slideというのが本名なのかどうか知らないが、Slide楽器であるトロンボーンを連想させる名前はトロンボーン奏者の目に間違いなく飛び込んでくる。
Slide Hampton (tb) Joachim Kuhn (p) Niels Henning Orsted Pedersen (b) Philly Joe Jones (dr)
トロンボーンだけのワン・ホーンのアルバムというのは実は結構珍しいもので、それが本アルバムを強く特徴づけています。折しも録音は1969年というアメリカ・ジャズ界の変遷期に、パリで録音されています。ワンホーンだからといってトロンボーンが常にリードするわけでなく、狂奔するトリオの手綱を引いているかのような立ち回りです。特にLPのA面の2曲は超ハイテンションでまったく休まる暇もありません。これだけの高い緊張感を味わえるというのはなかなか稀有な体験であります。
朗々と歌い上げるわけでもなく、かといって超絶技巧をひけらかすわけではない。では何故にトロンボーンでなければならないのか?という疑問もありますが、敢えてトロンボーンの音色・音域であるがゆえに魅力であることも事実ですし、ハンプトンの作編曲家としてのただならぬ才能を楽しむためのものであるともいえるかもしれません。
不況・デフレに加えて、ネット配信の影響でCD業界は斜陽といわれて久しいですが、だからこそ今日の1000円文化があります。低価格で名盤が楽しめるのは本当にいい時代だと思います。かつて「幻の名盤」を求めて大枚をはたいた方々は、今日このCDがたったの999円で買えることを嬉しいと思うか、それとも悔しいと思うでしょうか?。
ファンキーというよりもむしろエキセントリックな演奏を楽しみたい向きにはおすすめの一枚で、非常に硬質です。トロンボーンそのもののムーディーな感じを味わうのであればフラーやグリーンの演奏に接すればよく、本アルバムにはそういったものはないのですが、逆に本来のトロンボーンらしからぬ役割でもってこういうことをやるということで、他にない魅力がつまっているといえます。先の記事のフラーの作品と併せて、買って損の無い一枚、しかも999円です。
SLIDING EASY [音楽]
皆様、こんばんは。
一昔前に、ジャズにはまった時期があり、その名残で自宅には40枚近いCDがありました。しかしその後またクラシックや管楽に復帰したため、それらも長いこと埃をかぶっていましたが、最近またひょんなことから再びジャズを聴き出して、魅力を再発見といった感じです。
What A is to B, C is to D.という成句があります。正しいかどうか別として、古典音楽とジャズの関係は、純文学とマンガの関係と同じであるというと怒られるかもしれません。しかし、かの大指揮者のブルーノ・ワルター老はいみじくも、「ジャズ音楽は古典音楽のカリカチュアのように感じられる」というような言を残しています。しかし一方、むしろジャズの方が高度な音楽なのだという指摘もあながち間違いではないかもしれません。クラシックよりコードが複雑ですし、演奏技法的にみても、クラシックよりも高度な技術が要求されます。ちなみに、マンガも文学に劣らず深いものもあります。
では果たしてクラシック愛好家にとってもジャズの位置づけとはどういうものになるのでしょうか?。同じ土俵ではないことは確かですが、なにか通じるものがあるはずで、両方に詳しいひとは結構多いと思われます。グルダのように、クラシックのピアニストでありながら一時ジャズに転向した人もいます(逆も同様)。私自身は、上記のようにジャズがクラシックよりも劣るとは思ってはいませんが、クラシック音楽にはないジャズの良さを単純に感じられればそれで十分だとは感じています。疲れた一日の最後には、大シンフォニーよりもJAZZYな方が向いているわけです。
さて、トロンボーンという楽器は、ジャズ音楽界にあってはどちらかというと脇役のことが多いのですが、私の所有する46枚中24枚がリーダー、またはサブでトロンボーンが登場するものです。実に半分近いわけですが、おそらくあらゆるジャズのアルバムでトロンボーンが登場するのは1割以下です。従って、私の5割近いアベレージはある意味異常なのですが、当然これは、わざと選んで購入しているからです。トロンボーン奏者の端くれとして、ジャズ・トロンボーン奏者の演奏を聴くと参考に(?)なることも多いですし、なによりも演奏を親しみやすく感じられます。ジャズに登場する管楽器といえばトランペットとサックスがまず代表に挙げられることは否定しませんが、トロンボーンは音域や奏法などからしても、独特の音色でえもいわれぬ雰囲気を醸し出します。
さて、そこで先日何気なく999円(の2割引)で買ったCurtis Fullerの「SLIDING EASY」です。Jazzのトロンボーンのスライディング操作がイージーなわけがないのですが、いかにも簡単にやってのけてしまうところが凄いわけです。さて、このアルバムのSextetが何とも凄い顔ぶれで、Curtis Fuller(tb) Lee Morgan(tp) Hank Mobley(tsax) Tommy Flanagan (p) Paul Chambers(bass) Elvin Jones (drums) となっています!!。この名作が長らく聴けず、2010年にEMIから国内初CD化!というわけですから、どれだけの音源が地中深く眠っているかわかったものではありませんし、すべて耳を通すことは不可能であります。従って、私のようにテーマを決めて買うというのも手かもしれません。
Curtis Fuller といえば、「ブルースエット」なんかは村上春樹の小説でも紹介されて結構有名ですが、個人的には彼のアルバムの中では好きではないほうです。ブルー・ノートの3つのリーダー作のほうがおすすめですし、今回の「Sliding Easy」(Liberty)も一般向けに聴き所が多いと思います。フラーの魅力である低音部の厚みのある温かい音色と、くすんだ独特の雰囲気がここでも味わえます。そんな中、底抜けに楽しい2曲目の「Down Home」がこのアルバムでイチオシです。いかにも古臭いカントリー・ブルースのような感じですが、フラーの超絶技巧に加え、モブレーとモーガンの好サポートも光ります。後半は静かな曲が多いですが、息のあったチーム・プレイで安心して聞きとおすことができます。全体にファンキーでありながら、適度な抑制を保ちながら進んでいく、まさに、オールスターメンバーならではの職人芸といえると思います。ジャズCDの宣伝文句では常套句ですが、隠れた名盤だとおもいます(隠れた名盤という表現に弱い方は多いと思います)。
一昔前に、ジャズにはまった時期があり、その名残で自宅には40枚近いCDがありました。しかしその後またクラシックや管楽に復帰したため、それらも長いこと埃をかぶっていましたが、最近またひょんなことから再びジャズを聴き出して、魅力を再発見といった感じです。
What A is to B, C is to D.という成句があります。正しいかどうか別として、古典音楽とジャズの関係は、純文学とマンガの関係と同じであるというと怒られるかもしれません。しかし、かの大指揮者のブルーノ・ワルター老はいみじくも、「ジャズ音楽は古典音楽のカリカチュアのように感じられる」というような言を残しています。しかし一方、むしろジャズの方が高度な音楽なのだという指摘もあながち間違いではないかもしれません。クラシックよりコードが複雑ですし、演奏技法的にみても、クラシックよりも高度な技術が要求されます。ちなみに、マンガも文学に劣らず深いものもあります。
では果たしてクラシック愛好家にとってもジャズの位置づけとはどういうものになるのでしょうか?。同じ土俵ではないことは確かですが、なにか通じるものがあるはずで、両方に詳しいひとは結構多いと思われます。グルダのように、クラシックのピアニストでありながら一時ジャズに転向した人もいます(逆も同様)。私自身は、上記のようにジャズがクラシックよりも劣るとは思ってはいませんが、クラシック音楽にはないジャズの良さを単純に感じられればそれで十分だとは感じています。疲れた一日の最後には、大シンフォニーよりもJAZZYな方が向いているわけです。
さて、トロンボーンという楽器は、ジャズ音楽界にあってはどちらかというと脇役のことが多いのですが、私の所有する46枚中24枚がリーダー、またはサブでトロンボーンが登場するものです。実に半分近いわけですが、おそらくあらゆるジャズのアルバムでトロンボーンが登場するのは1割以下です。従って、私の5割近いアベレージはある意味異常なのですが、当然これは、わざと選んで購入しているからです。トロンボーン奏者の端くれとして、ジャズ・トロンボーン奏者の演奏を聴くと参考に(?)なることも多いですし、なによりも演奏を親しみやすく感じられます。ジャズに登場する管楽器といえばトランペットとサックスがまず代表に挙げられることは否定しませんが、トロンボーンは音域や奏法などからしても、独特の音色でえもいわれぬ雰囲気を醸し出します。
さて、そこで先日何気なく999円(の2割引)で買ったCurtis Fullerの「SLIDING EASY」です。Jazzのトロンボーンのスライディング操作がイージーなわけがないのですが、いかにも簡単にやってのけてしまうところが凄いわけです。さて、このアルバムのSextetが何とも凄い顔ぶれで、Curtis Fuller(tb) Lee Morgan(tp) Hank Mobley(tsax) Tommy Flanagan (p) Paul Chambers(bass) Elvin Jones (drums) となっています!!。この名作が長らく聴けず、2010年にEMIから国内初CD化!というわけですから、どれだけの音源が地中深く眠っているかわかったものではありませんし、すべて耳を通すことは不可能であります。従って、私のようにテーマを決めて買うというのも手かもしれません。
Curtis Fuller といえば、「ブルースエット」なんかは村上春樹の小説でも紹介されて結構有名ですが、個人的には彼のアルバムの中では好きではないほうです。ブルー・ノートの3つのリーダー作のほうがおすすめですし、今回の「Sliding Easy」(Liberty)も一般向けに聴き所が多いと思います。フラーの魅力である低音部の厚みのある温かい音色と、くすんだ独特の雰囲気がここでも味わえます。そんな中、底抜けに楽しい2曲目の「Down Home」がこのアルバムでイチオシです。いかにも古臭いカントリー・ブルースのような感じですが、フラーの超絶技巧に加え、モブレーとモーガンの好サポートも光ります。後半は静かな曲が多いですが、息のあったチーム・プレイで安心して聞きとおすことができます。全体にファンキーでありながら、適度な抑制を保ちながら進んでいく、まさに、オールスターメンバーならではの職人芸といえると思います。ジャズCDの宣伝文句では常套句ですが、隠れた名盤だとおもいます(隠れた名盤という表現に弱い方は多いと思います)。
4.21 肩書+臨時昇給 [個人的なこと]
皆様、こんにちは。
最近は更新が少なくなっていますが、なにかとあまり気分的にHighにならないので、ブログを書く精神的余裕がありません。何卒ご容赦ください。
4月より、ある肩書きが追加されました。それとは、「日本○○学会 暫定指導医」なるものです。暫定ですので、5年後までに正式な指導医にならなければ自動的に資格を喪失するわけですが、そもそもこの指導医とは一体何なのかということになります。実は専門医でありながら、この領域に関して指導的な立場で活動したことは一切なく、多少の経験と机上の知識があるに過ぎません。そもそも日本の学会の専門医制度のほとんどは「ざる」であることが問題視され、(私のような?)名ばかり専門医が世に溢れていることが問題になり、制度そのものを厳しくする動きがあります。そのため、専門施設を選択・集中するという動きになり、一時的ではありますが却ってこの「暫定」なる資格保持者が増える傾向にあるのが昨今の状況のようです。
一応、「専門医」 → 「指導医」 → 「代議員・評議員・理事・理事長」 という風ですので、指導医は専門医より少し上の立場になります。ただ、「暫定」指導医は専門医資格を持っていれば申請すれば取得できるので、実質的にはたいしたことはありません(もちろん、制度は学会により異なります)。
私はそもそもこのような資格をどうしても欲しかったわけではありません。しかし、後輩のドクターがこの学会の専門医をとるに当たり、勤務先が研修指定施設でなければならず、自動的に私が(暫定)指導医にならなければならなかったわけです。ではなぜ私が専門医なのかというと、前述の通り、専門医制度が「ざる」の時代に取得したためで、当時は研修指定施設という概念そのものがなかったからです。もちろん、取得そのものは容易でしたが、そなりに勉強してレポートを提出して試験を受けて(合格率の高い)試験を通ったのですから、それなりの自負はあります。
今後は特定の病院勤務歴がなければ専門医がとれなくなりますが、それはそれでおかしな話であって、よほど特殊な領域の疾患でなければ、患者さんはある程度の規模の病院には受診するのですから、このままでは大病院勤務歴がないドクターは、いくら真の専門性が高くても専門医になれないことになってしまいます。
昨今ではほとんどの病院でHPが公開され、医師だけは社会的にプライバシーを失っているという不思議な状況になっており、多くのHPで肩書も公開されています。特に内科・外科・整形などで多いのですが、多い人ですと10以上もの学会の専門医やら評議員やらの資格をお持ちのようです。しかし、仕事が多忙なこれらの方々が、本当にそれだけの学会活動をしているのかというと、極めて疑問ではあります。肩書きがあると何となく「見栄え」がいいので取っておいたというものは結構多いのでしょう。ですから、病院を受診する際は、肩書きの多いドクターがいいとはかならずしも限らないというわけです。
ということで、自分でいうのも恥ずかしいながら、見栄えのいい肩書きが一つ増えましたので、その名に恥じぬように勉強しなければならないと思っているのです。はっきり言って、前述の後輩のドクター(専門医取得準備中)の方がよっぽど知識も豊富なので、この制度も何なのだろうと正直思ったりもします。その一方、やはり何となく肩書きがあると安心・嬉しいという、これまた俗物的な感情もないではありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肩書きとあわせて、今月から給料が約3万増えました。これは、院内規定による能力給なるものなので、院長が決定する権限をもつものですが、そもそも現場を知らない院長が個個のドクターの勤務評価など正当にできるはずがありません。今回この手当が増えたということは、院長評価が上がったということなのですが、これはいろいろと「ウラ」があるのでこの紙面では書ききれません。一番大きかったのは、院長面接でいろいろと当院の問題を指摘したことだと思っています。問題点のない病院など存在しないと思いますが、私の勤務先はあまりにも多くの根本的問題があります。現場がいくら努力しても解決しない問題もありますし、解決しようにも上層部がどうしようもないとどうにもならない時もあります。現場の不満や改善点をいくら言っても(それがいかに正等なものであっても)通らないこともあるわけです。そうなると最終的に「諦め」となるわけです。そのような内容を、院長と1対1でいろいろと話しました。勿論、院長も体制側の人間なので味方であると同時に敵(!)でもあるわけですが、熱意は伝わったということでしょうか?。それとも、口うるさいので給料でも上げておいてやるか、ということかもしれませんが、貰える物は有難く貰っておく事にしたわけです。この能力給なるものは(当院規定では)半年毎に改定されるので、元に戻るかもしれませんが・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんなこんなで、新年度で色々とリフレッシュされた点もあり、来週は新人歓迎会の幹事もせねばなりませんし、いろいろと問題点がないわけではありませんが、それなりに充実した日々となっております。
ついでながら、6月までにポゴレリチの来日リサイタルと、パーヴォ・ヤルヴィの来日公演のマーラー5番があります。両方とも相当に値が張るものですが、上記のような事情もあり、奮発したのです。両方共に、今シーズンの来日の目玉ですので、大変楽しみです。
最近は更新が少なくなっていますが、なにかとあまり気分的にHighにならないので、ブログを書く精神的余裕がありません。何卒ご容赦ください。
4月より、ある肩書きが追加されました。それとは、「日本○○学会 暫定指導医」なるものです。暫定ですので、5年後までに正式な指導医にならなければ自動的に資格を喪失するわけですが、そもそもこの指導医とは一体何なのかということになります。実は専門医でありながら、この領域に関して指導的な立場で活動したことは一切なく、多少の経験と机上の知識があるに過ぎません。そもそも日本の学会の専門医制度のほとんどは「ざる」であることが問題視され、(私のような?)名ばかり専門医が世に溢れていることが問題になり、制度そのものを厳しくする動きがあります。そのため、専門施設を選択・集中するという動きになり、一時的ではありますが却ってこの「暫定」なる資格保持者が増える傾向にあるのが昨今の状況のようです。
一応、「専門医」 → 「指導医」 → 「代議員・評議員・理事・理事長」 という風ですので、指導医は専門医より少し上の立場になります。ただ、「暫定」指導医は専門医資格を持っていれば申請すれば取得できるので、実質的にはたいしたことはありません(もちろん、制度は学会により異なります)。
私はそもそもこのような資格をどうしても欲しかったわけではありません。しかし、後輩のドクターがこの学会の専門医をとるに当たり、勤務先が研修指定施設でなければならず、自動的に私が(暫定)指導医にならなければならなかったわけです。ではなぜ私が専門医なのかというと、前述の通り、専門医制度が「ざる」の時代に取得したためで、当時は研修指定施設という概念そのものがなかったからです。もちろん、取得そのものは容易でしたが、そなりに勉強してレポートを提出して試験を受けて(合格率の高い)試験を通ったのですから、それなりの自負はあります。
今後は特定の病院勤務歴がなければ専門医がとれなくなりますが、それはそれでおかしな話であって、よほど特殊な領域の疾患でなければ、患者さんはある程度の規模の病院には受診するのですから、このままでは大病院勤務歴がないドクターは、いくら真の専門性が高くても専門医になれないことになってしまいます。
昨今ではほとんどの病院でHPが公開され、医師だけは社会的にプライバシーを失っているという不思議な状況になっており、多くのHPで肩書も公開されています。特に内科・外科・整形などで多いのですが、多い人ですと10以上もの学会の専門医やら評議員やらの資格をお持ちのようです。しかし、仕事が多忙なこれらの方々が、本当にそれだけの学会活動をしているのかというと、極めて疑問ではあります。肩書きがあると何となく「見栄え」がいいので取っておいたというものは結構多いのでしょう。ですから、病院を受診する際は、肩書きの多いドクターがいいとはかならずしも限らないというわけです。
ということで、自分でいうのも恥ずかしいながら、見栄えのいい肩書きが一つ増えましたので、その名に恥じぬように勉強しなければならないと思っているのです。はっきり言って、前述の後輩のドクター(専門医取得準備中)の方がよっぽど知識も豊富なので、この制度も何なのだろうと正直思ったりもします。その一方、やはり何となく肩書きがあると安心・嬉しいという、これまた俗物的な感情もないではありません。
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肩書きとあわせて、今月から給料が約3万増えました。これは、院内規定による能力給なるものなので、院長が決定する権限をもつものですが、そもそも現場を知らない院長が個個のドクターの勤務評価など正当にできるはずがありません。今回この手当が増えたということは、院長評価が上がったということなのですが、これはいろいろと「ウラ」があるのでこの紙面では書ききれません。一番大きかったのは、院長面接でいろいろと当院の問題を指摘したことだと思っています。問題点のない病院など存在しないと思いますが、私の勤務先はあまりにも多くの根本的問題があります。現場がいくら努力しても解決しない問題もありますし、解決しようにも上層部がどうしようもないとどうにもならない時もあります。現場の不満や改善点をいくら言っても(それがいかに正等なものであっても)通らないこともあるわけです。そうなると最終的に「諦め」となるわけです。そのような内容を、院長と1対1でいろいろと話しました。勿論、院長も体制側の人間なので味方であると同時に敵(!)でもあるわけですが、熱意は伝わったということでしょうか?。それとも、口うるさいので給料でも上げておいてやるか、ということかもしれませんが、貰える物は有難く貰っておく事にしたわけです。この能力給なるものは(当院規定では)半年毎に改定されるので、元に戻るかもしれませんが・・・。
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そんなこんなで、新年度で色々とリフレッシュされた点もあり、来週は新人歓迎会の幹事もせねばなりませんし、いろいろと問題点がないわけではありませんが、それなりに充実した日々となっております。
ついでながら、6月までにポゴレリチの来日リサイタルと、パーヴォ・ヤルヴィの来日公演のマーラー5番があります。両方とも相当に値が張るものですが、上記のような事情もあり、奮発したのです。両方共に、今シーズンの来日の目玉ですので、大変楽しみです。
偉大なるシンフォニー [クラシック音楽]
この世に存在する交響曲の中で一番偉大なものはどれだろうか?。
やはりベートーベンの「第9」は捨てがたいし、マーラー・ファンであればマーラー9番を推すか、もしくは「大地の歌」、いや、規模がハンパない「第8番(千人の交響曲)」であろうか?。マーラーよりもブルックナーを推す向きからは、やはりブル8であろうか?。それとも、完成までに10数年かかったブラームスの1番だろうか?。いやいや、交響曲の父といわれるハイドン先生を無視するわけにはいかない。ここは94番「奇蹟」にも一票。チャイコフスキーなら6番「悲愴」か5番か、モーツアルト41番「ジュピター」か、ショスタコーヴィチ8番か、いや、シベリウスの7番であろうか?。シベリウスなどは1-7番すべてに魅力があるので、票が割れることは必至だろう。
そんなこんなで、私が(ある意味)最も偉大なるシンフォニーと考えているのは、文字通り偉大なるシューベルトの交響曲第9番(または第8(9)番)「ザ・グレイト」である。所有音源数も他のシンフォニーを引き離す13指揮者15音源である。なぜここまで入れ込んだのか分からないのだが、聴けば聴くほどに味わいの深いシンフォニーなので、是非とも体感して欲しい。
そもそもこのシンフォニーは、シューベルトの死後シューマンによって発見され、その評にある「天国的な長さ」ということからグレイトと名づけられている。執拗なまでの主題の反復とそれに伴う長時間の演奏を要する点で、当時からすると確かに「グレイト」なシンフォニーであったであろう。4楽章まですべてに10数分を要し、総演奏時間は50分近くに達する。しかし、今日の基準からすると、決して極端に長大というわけではない。なお、初演はメンデルスゾーン指揮ゲヴァントハウス管弦楽団である。このくらいのことは、CDの解説書を何回も読むと自然に覚えてしまうものである。
さて、その15音源とは・・・
① アバド、ヨーロッパ室内管 ②ワルター・コロンビア ③ワルター NYP ④ジュリーニ バイエルン放送響 ⑤ ジュリーニ シカゴ響 ⑥レーグナー ベルリン放送響 ⑦ ヴァント、BPO ⑧ カラヤン BPO ⑨クナッパーツブッシュ VPO ⑩コンヴィチュニー ⑪ チェリビダッケ ミュンヘンフィル ⑫ フルトヴェングラー BPO ⑬ バーンスタイン コンセルトヘボウ管 ⑭ ミュンシュ ボストン響 ⑮ トスカニーニ NBC
いやはや、よくこれだけ聴いたものだとも思うが、不思議なことに何回でも聴きたくなる曲の魅力があるからである。実はそれほど有名な旋律があるわけではないのだが、どれも印象的で魅力的なもので、主題の反復も心地よく聴こえるくらいだ。しかし、第3楽章の反復だけはさすがに冗長なのでカットする演奏が多い。それに慣れてしまうと、さすがにくどく聴こえるので要注意だ。①⑤⑧の音源は確か反復するバージョンであったはずだ。それを見極めるためには、第3楽章の演奏時間を見れば分かる。12分以内が通常のカットするバージョンで、それ以上かかっている(14分くらい)のはカットしないバージョンである。
ワルターの演奏はまず基本的に規範となるものであり、歌う心に溢れている。ことに3楽章の深みは素晴らしく、②は愛聴盤である。ジュリーニに新盤④も1楽章の主題を無理矢理レガート奏法にしたり、4楽章の最後にディミヌエンドをかけたりと、面白い仕掛けに溢れた聴き所満載の魅力盤である。②④は入手は容易なので、聴いて損をすることはないだろう(ただ、④の1楽章はかなり変わっているので注意)。⑧も入手は容易だが、さすがに帝王カラヤンも何か無理矢理に曲を疾走させているので、懐は浅い。全体として特に大きな欠点はないが、面白みには欠けるかも知れないし、後述のようにテンポが速いのがよくない。⑨クナは今日では入手困難だが、あまり強い印象はなく、4楽章のコーダからスピードを極端に遅くする仕掛けがなにかやけくそなものを感じさせる。意外とよくないのが⑬バーンスタインである。いや、バーンスタインは好きな指揮者なのだけれども、4楽章の弦の奏法がおかしかったり、とにかく「全体に変」な演奏である。⑮ トスカニーニ はとにかくテンポが速い。しかし、この曲はゆったりとどっしりと演奏する方がいいので、最近はめっきり聴かなくなってしまった。⑫フルトヴェングラーは、決定版とされることも多いので一応耳を通しておいたのだが、やはりあまり私の心には強く訴えるものがなかった。これは好みの問題で、ワルター好きであれば敢えてフルトヴェングラーを聴く必要はないだろう。⑦ヴァントのおじさんはあまりにも真面目すぎて突っ込みどころがないというか、コメントしようもない。これでも一応褒めているのだが、どうもこの辺がアンチファンを増やしているような気がするのだ。
さて、長々と書いてきたけれども、何と私のイチオシは ⑥レーグナー ベルリン放送響 の演奏である。DENONから出ており、何と1050円で購入できる。この演奏は、上記15音源のなかでも1・2を争うテンポの遅さであるが、このような冗長な曲を遅いテンポでやり続けるのは結構な至難の業である。しかし、速いテンポではこの曲本来もつ勇壮な第一楽章、枯れた第二楽章、躍動する第3-4楽章の魅力を十分に堪能できないのである。その点で、エネルギーを保ちつつゆったりとした遅いテンポで滋味深い演奏を聞かせてくれるのは今のところレーグナー先生だけなのである。マーラー演奏などでも隠れファンが多い巨匠であるが、旧東ドイツで活動していただけにあまりその演奏に触れることは少ない。従って、何故このCDを買ったのか、何とも不思議な巡り会わせだったのだが、何気なく買った本盤がNO1となった。ただ、細かいところでは4楽章などで管と弦のバランスが悪いし、3楽章の歌わせ方などはワルターには及ばないなどあるけれども、とにかく第一楽章だけは他のあらゆる演奏を引き離して堂々たる歌わせ方である。悠久たる大河を想起させるその演奏からは、まさしく真に「グレイト」なるものを感じずにはおれないわけである。
さて、この曲は以前は9番と呼ばれていたが、番号再編後は8番になっている。しかし、紛らわしいので、8(9)番と表記するのが一般的だが、かえって紛らわしくなっている。また、かなり昔は7番と呼ばれ、一時は10番であったこともあったという。長くなってしまったのでこの辺の経緯は興味のある方は調べていただきたい。シューマンによって発見されなければ今日聴けなかったかも知れないという点で、7(8)番「未完成」よりもある意味ミステリアスな曲である。トロンボーンが大活躍するのも、その当時としては画期的であり、1-4楽章が大体同じ時間(⑩-14分)というのも面白い。そして、終楽章のラストでディミヌエンドをかけるかどうかという永遠の謎が残されている。シューベルトの悪筆が、本来のアクセント記号がディミヌエンドに見えてしまっているという説が一般的ではあるが、実際にはジュリーニやチェリのようにディミヌエンドをかける演奏も違和感がないのである。とまあ、とにかくエピソードには事欠かない曲であるし、文字通り偉大なるシンフォニーであることは間違いない。
やはりベートーベンの「第9」は捨てがたいし、マーラー・ファンであればマーラー9番を推すか、もしくは「大地の歌」、いや、規模がハンパない「第8番(千人の交響曲)」であろうか?。マーラーよりもブルックナーを推す向きからは、やはりブル8であろうか?。それとも、完成までに10数年かかったブラームスの1番だろうか?。いやいや、交響曲の父といわれるハイドン先生を無視するわけにはいかない。ここは94番「奇蹟」にも一票。チャイコフスキーなら6番「悲愴」か5番か、モーツアルト41番「ジュピター」か、ショスタコーヴィチ8番か、いや、シベリウスの7番であろうか?。シベリウスなどは1-7番すべてに魅力があるので、票が割れることは必至だろう。
そんなこんなで、私が(ある意味)最も偉大なるシンフォニーと考えているのは、文字通り偉大なるシューベルトの交響曲第9番(または第8(9)番)「ザ・グレイト」である。所有音源数も他のシンフォニーを引き離す13指揮者15音源である。なぜここまで入れ込んだのか分からないのだが、聴けば聴くほどに味わいの深いシンフォニーなので、是非とも体感して欲しい。
そもそもこのシンフォニーは、シューベルトの死後シューマンによって発見され、その評にある「天国的な長さ」ということからグレイトと名づけられている。執拗なまでの主題の反復とそれに伴う長時間の演奏を要する点で、当時からすると確かに「グレイト」なシンフォニーであったであろう。4楽章まですべてに10数分を要し、総演奏時間は50分近くに達する。しかし、今日の基準からすると、決して極端に長大というわけではない。なお、初演はメンデルスゾーン指揮ゲヴァントハウス管弦楽団である。このくらいのことは、CDの解説書を何回も読むと自然に覚えてしまうものである。
さて、その15音源とは・・・
① アバド、ヨーロッパ室内管 ②ワルター・コロンビア ③ワルター NYP ④ジュリーニ バイエルン放送響 ⑤ ジュリーニ シカゴ響 ⑥レーグナー ベルリン放送響 ⑦ ヴァント、BPO ⑧ カラヤン BPO ⑨クナッパーツブッシュ VPO ⑩コンヴィチュニー ⑪ チェリビダッケ ミュンヘンフィル ⑫ フルトヴェングラー BPO ⑬ バーンスタイン コンセルトヘボウ管 ⑭ ミュンシュ ボストン響 ⑮ トスカニーニ NBC
いやはや、よくこれだけ聴いたものだとも思うが、不思議なことに何回でも聴きたくなる曲の魅力があるからである。実はそれほど有名な旋律があるわけではないのだが、どれも印象的で魅力的なもので、主題の反復も心地よく聴こえるくらいだ。しかし、第3楽章の反復だけはさすがに冗長なのでカットする演奏が多い。それに慣れてしまうと、さすがにくどく聴こえるので要注意だ。①⑤⑧の音源は確か反復するバージョンであったはずだ。それを見極めるためには、第3楽章の演奏時間を見れば分かる。12分以内が通常のカットするバージョンで、それ以上かかっている(14分くらい)のはカットしないバージョンである。
ワルターの演奏はまず基本的に規範となるものであり、歌う心に溢れている。ことに3楽章の深みは素晴らしく、②は愛聴盤である。ジュリーニに新盤④も1楽章の主題を無理矢理レガート奏法にしたり、4楽章の最後にディミヌエンドをかけたりと、面白い仕掛けに溢れた聴き所満載の魅力盤である。②④は入手は容易なので、聴いて損をすることはないだろう(ただ、④の1楽章はかなり変わっているので注意)。⑧も入手は容易だが、さすがに帝王カラヤンも何か無理矢理に曲を疾走させているので、懐は浅い。全体として特に大きな欠点はないが、面白みには欠けるかも知れないし、後述のようにテンポが速いのがよくない。⑨クナは今日では入手困難だが、あまり強い印象はなく、4楽章のコーダからスピードを極端に遅くする仕掛けがなにかやけくそなものを感じさせる。意外とよくないのが⑬バーンスタインである。いや、バーンスタインは好きな指揮者なのだけれども、4楽章の弦の奏法がおかしかったり、とにかく「全体に変」な演奏である。⑮ トスカニーニ はとにかくテンポが速い。しかし、この曲はゆったりとどっしりと演奏する方がいいので、最近はめっきり聴かなくなってしまった。⑫フルトヴェングラーは、決定版とされることも多いので一応耳を通しておいたのだが、やはりあまり私の心には強く訴えるものがなかった。これは好みの問題で、ワルター好きであれば敢えてフルトヴェングラーを聴く必要はないだろう。⑦ヴァントのおじさんはあまりにも真面目すぎて突っ込みどころがないというか、コメントしようもない。これでも一応褒めているのだが、どうもこの辺がアンチファンを増やしているような気がするのだ。
さて、長々と書いてきたけれども、何と私のイチオシは ⑥レーグナー ベルリン放送響 の演奏である。DENONから出ており、何と1050円で購入できる。この演奏は、上記15音源のなかでも1・2を争うテンポの遅さであるが、このような冗長な曲を遅いテンポでやり続けるのは結構な至難の業である。しかし、速いテンポではこの曲本来もつ勇壮な第一楽章、枯れた第二楽章、躍動する第3-4楽章の魅力を十分に堪能できないのである。その点で、エネルギーを保ちつつゆったりとした遅いテンポで滋味深い演奏を聞かせてくれるのは今のところレーグナー先生だけなのである。マーラー演奏などでも隠れファンが多い巨匠であるが、旧東ドイツで活動していただけにあまりその演奏に触れることは少ない。従って、何故このCDを買ったのか、何とも不思議な巡り会わせだったのだが、何気なく買った本盤がNO1となった。ただ、細かいところでは4楽章などで管と弦のバランスが悪いし、3楽章の歌わせ方などはワルターには及ばないなどあるけれども、とにかく第一楽章だけは他のあらゆる演奏を引き離して堂々たる歌わせ方である。悠久たる大河を想起させるその演奏からは、まさしく真に「グレイト」なるものを感じずにはおれないわけである。
さて、この曲は以前は9番と呼ばれていたが、番号再編後は8番になっている。しかし、紛らわしいので、8(9)番と表記するのが一般的だが、かえって紛らわしくなっている。また、かなり昔は7番と呼ばれ、一時は10番であったこともあったという。長くなってしまったのでこの辺の経緯は興味のある方は調べていただきたい。シューマンによって発見されなければ今日聴けなかったかも知れないという点で、7(8)番「未完成」よりもある意味ミステリアスな曲である。トロンボーンが大活躍するのも、その当時としては画期的であり、1-4楽章が大体同じ時間(⑩-14分)というのも面白い。そして、終楽章のラストでディミヌエンドをかけるかどうかという永遠の謎が残されている。シューベルトの悪筆が、本来のアクセント記号がディミヌエンドに見えてしまっているという説が一般的ではあるが、実際にはジュリーニやチェリのようにディミヌエンドをかける演奏も違和感がないのである。とまあ、とにかくエピソードには事欠かない曲であるし、文字通り偉大なるシンフォニーであることは間違いない。
電力再考 [自然・環境]
皆さん、こんばんは。
原発についてはもはや色んなところで論じられていますし、本ブログの過去記事でも示してきました。
例えば、「原発がないと電気が足りない」というのがウソであることは有名で、休眠火力発電所を稼動すれば電力は十分まかなえますし、そもそも「足りない」という以前に無駄な需要を減らせばいいのですから、違法賭博であるパチンコを禁止したり、タバコの自販機を禁止・飲料の自販機を半減させるなど、いくらでも方策があるわけです。勿論、産業界との折り合いの問題もありますし、上記だけでも微々たるものですが、物事はまず整理整頓して考える必要があるので、供給を論じるのであれば需要にも触れなければいけません。
「いずれ化石燃料が枯渇・・・」というのもウソであって、ウランなどと比してまだ莫大な量の石油・石炭・天然ガスがあるという説が有力です。最も、究極的にどれだけ残っているのかは一般の人にはわかりませんが、あと数百年はあるだろうという説が有力です。原子力は電力は生むかも知れませんが、石油のように直接動力とはならないわけで、原子力が石油の代替であるかのような話も勿論大ウソであります。
火力発電の現在の主力は天然ガスで次いで石炭で、石油火力はコスト高の問題もありほぼ使われていません。ですから、石油の次は原子力というのは大嘘で、石油の次は天然ガスというべきでしょう。
電気自動車が環境に優しいなどという人もいますが、電気を作るのに化石燃料を使っていてエネルギーのロスが大きいという点で、甚だ疑問になってきます。こんなものが大規模に普及すれば、電力需要の増大で発電所の増設が必要になってしまうでしょう。クルマはガソリンで走らせて、燃費を向上させるほうが環境には優しいでしょう。
原発を稼動しないと経済が立ち行かなくなるとかいいますが、製品にしめる電気の割合というのは実はそれほど大きいものではありません。例外的にアルミ缶精製などは多量の電気を必要としますが、日本の電気代が高いので現在日本ではアルミ精錬は斜陽産業と化しているくらいなのです。したがって、日本では電力需要をある程度抑えれば供給は十分足りますので(昨夏今冬で実証すみ)、経済に影響があるとは考えにくいわけです。
いまさらながら、石油・石炭は温室効果ガスを・・・という議論も全くのナンセンスですし、二酸化炭素が地球温暖化を起こすという根拠も極めて薄弱ですし、温暖化が良くないことであるかのような前提も間違っています。前提が間違っていれば、正しい議論が出来るはずがありません。大体、原子力を推進するような人たちが、地球環境保護に興味があるとは到底考えられません。
コストについては言うまでもありません。今回の事故の賠償やら廃棄物処理(できたらの話ですが・・・)を含めても安いのだという無理矢理の試算もありますが、もはや誰も信じてはいないでしょう。今回の事故のダメージが日本経済に及ぼした影響は、潜在的なものを含めて何十兆にのぼることは想像に難くありません。さらに事故処理にあと何十年もかかりますし、放射性廃棄物の処理のメドもたっていないことから考えますと、原発は経済的にも極めてハイリスクであることは間違いありません。
従って、原発を持つメリットというのは、防衛上の核抑止力になる(かも?)点しかありません。従って、小林○○のり氏がいうように、原発はやめて原爆を保有するというのには一理あります。勿論私はこの論には反対ですが、いずれにしても日本は世界有数のプルトニウム保有国であり、このPuを処理できない以上は潜在的核抑止力はもっていることになるのですから、もうこれ以上続ける意味などないわけです。
デメリットだけは計り知れません。一つの県の半分が居住不能になったこと(実際にはすんでいますが)や、東日本・太平洋産の食品が多かれ少なかれ、確実に放射能汚染されたということです。
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以上がまとめですが、原発は国内では利権が絡んできますので、いわゆる推進派の人たちは何とでも数字を操作して必要性を強調してきます。プルサーマルの時は「プルトニウムは呑んでも大丈夫」とか、原発事故後は「一年100mSVまで大丈夫」とか、専門家でもないのに言いたい放題でした。そんな連中が専門家などと称してストレステストだなんだというので、話がややこしくなってくるわけです。
ところで、最近の武田邦彦氏のブログに書いてあったのですが、電力を完全自由化すればいずれにしても原発は消えていくであろう・・・というのはその通りだと思います。そもそも原発は危なすぎるので誰もやりたがらず、札束をちらつかせて無理矢理国策でごり押ししてきたという歴史があります。いろんな種類のカネがばら撒かれ、コストは安いことにされ、関係者が潤うシステムになってきました。これは利権ですから、関係者は巨大事故を起こしてすら、なんとしても守ろうとします。一方、電力を自由化すれば、新設の電力会社は火力発電を中心に新エネルギーに取り組むことになりますが、原発などは恐ろしくて手を出しようがありません。しかも、実際に新設の電力会社の方が、東電よりも安く電力を販売している実情もありますし、市場が広がれば価格は更に安くなります。コジェネが発電の主流になってきますし、家庭では太陽電池なども普及し、結果として電力会社にかかる需要の全体量は低下します。すると顧客の奪い合いになって、質面倒くさい原子力などとは関わっていられなくなるわけです。
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いまや、原発推進派や維持派の言うことなど、全く説得力の無いものに成り下がっていますし、それは連中のいうことが素人の私ですら論破できる幼稚なものだったり、間違った前提に立っているものであるからに他なりません。しかし、実際には報道などを見ていますと、いまだに原子力産業は無言の圧力により守られている気がします。
日本から原子の火が消える日が近づいています。そのことは日本にとっては福音であることは間違いありませんが、正確には原子炉の火が消えただけであって、使用済み燃料という名の火は燃えないように冷やし続けなければなりません。浜岡は止まっていますが、今回同様の事故が起これば福島4号機のような事態には十分なりうるわけです。従って、真の意味で原子の火が消えるのはまだ当分先ということになりますし、それは少なくとも今世紀ではありません。しかし、ことによると原子炉の火も再開されてしまうかもしれないですし、事は日本だけの問題ではなく、この星全体の問題で、原発をどうするのかを考えなければならないと思います。
個人的には、原発再稼動の絶対条件とは、現在の対策に加えて、事故時の避難体制等の確立及び、放射性廃棄物の無毒化の手法の確立、廃棄物の処理(つまりトイレ)のめどがつくことが必須であると考えています。もちろんそれは現在の技術では無理ということなので、基本的に原発は全廃の方向で進めなければならないでしょう。それは、仮に発電コストが本当に安いとしても、変わることはありえないわけです。
原発についてはもはや色んなところで論じられていますし、本ブログの過去記事でも示してきました。
例えば、「原発がないと電気が足りない」というのがウソであることは有名で、休眠火力発電所を稼動すれば電力は十分まかなえますし、そもそも「足りない」という以前に無駄な需要を減らせばいいのですから、違法賭博であるパチンコを禁止したり、タバコの自販機を禁止・飲料の自販機を半減させるなど、いくらでも方策があるわけです。勿論、産業界との折り合いの問題もありますし、上記だけでも微々たるものですが、物事はまず整理整頓して考える必要があるので、供給を論じるのであれば需要にも触れなければいけません。
「いずれ化石燃料が枯渇・・・」というのもウソであって、ウランなどと比してまだ莫大な量の石油・石炭・天然ガスがあるという説が有力です。最も、究極的にどれだけ残っているのかは一般の人にはわかりませんが、あと数百年はあるだろうという説が有力です。原子力は電力は生むかも知れませんが、石油のように直接動力とはならないわけで、原子力が石油の代替であるかのような話も勿論大ウソであります。
火力発電の現在の主力は天然ガスで次いで石炭で、石油火力はコスト高の問題もありほぼ使われていません。ですから、石油の次は原子力というのは大嘘で、石油の次は天然ガスというべきでしょう。
電気自動車が環境に優しいなどという人もいますが、電気を作るのに化石燃料を使っていてエネルギーのロスが大きいという点で、甚だ疑問になってきます。こんなものが大規模に普及すれば、電力需要の増大で発電所の増設が必要になってしまうでしょう。クルマはガソリンで走らせて、燃費を向上させるほうが環境には優しいでしょう。
原発を稼動しないと経済が立ち行かなくなるとかいいますが、製品にしめる電気の割合というのは実はそれほど大きいものではありません。例外的にアルミ缶精製などは多量の電気を必要としますが、日本の電気代が高いので現在日本ではアルミ精錬は斜陽産業と化しているくらいなのです。したがって、日本では電力需要をある程度抑えれば供給は十分足りますので(昨夏今冬で実証すみ)、経済に影響があるとは考えにくいわけです。
いまさらながら、石油・石炭は温室効果ガスを・・・という議論も全くのナンセンスですし、二酸化炭素が地球温暖化を起こすという根拠も極めて薄弱ですし、温暖化が良くないことであるかのような前提も間違っています。前提が間違っていれば、正しい議論が出来るはずがありません。大体、原子力を推進するような人たちが、地球環境保護に興味があるとは到底考えられません。
コストについては言うまでもありません。今回の事故の賠償やら廃棄物処理(できたらの話ですが・・・)を含めても安いのだという無理矢理の試算もありますが、もはや誰も信じてはいないでしょう。今回の事故のダメージが日本経済に及ぼした影響は、潜在的なものを含めて何十兆にのぼることは想像に難くありません。さらに事故処理にあと何十年もかかりますし、放射性廃棄物の処理のメドもたっていないことから考えますと、原発は経済的にも極めてハイリスクであることは間違いありません。
従って、原発を持つメリットというのは、防衛上の核抑止力になる(かも?)点しかありません。従って、小林○○のり氏がいうように、原発はやめて原爆を保有するというのには一理あります。勿論私はこの論には反対ですが、いずれにしても日本は世界有数のプルトニウム保有国であり、このPuを処理できない以上は潜在的核抑止力はもっていることになるのですから、もうこれ以上続ける意味などないわけです。
デメリットだけは計り知れません。一つの県の半分が居住不能になったこと(実際にはすんでいますが)や、東日本・太平洋産の食品が多かれ少なかれ、確実に放射能汚染されたということです。
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以上がまとめですが、原発は国内では利権が絡んできますので、いわゆる推進派の人たちは何とでも数字を操作して必要性を強調してきます。プルサーマルの時は「プルトニウムは呑んでも大丈夫」とか、原発事故後は「一年100mSVまで大丈夫」とか、専門家でもないのに言いたい放題でした。そんな連中が専門家などと称してストレステストだなんだというので、話がややこしくなってくるわけです。
ところで、最近の武田邦彦氏のブログに書いてあったのですが、電力を完全自由化すればいずれにしても原発は消えていくであろう・・・というのはその通りだと思います。そもそも原発は危なすぎるので誰もやりたがらず、札束をちらつかせて無理矢理国策でごり押ししてきたという歴史があります。いろんな種類のカネがばら撒かれ、コストは安いことにされ、関係者が潤うシステムになってきました。これは利権ですから、関係者は巨大事故を起こしてすら、なんとしても守ろうとします。一方、電力を自由化すれば、新設の電力会社は火力発電を中心に新エネルギーに取り組むことになりますが、原発などは恐ろしくて手を出しようがありません。しかも、実際に新設の電力会社の方が、東電よりも安く電力を販売している実情もありますし、市場が広がれば価格は更に安くなります。コジェネが発電の主流になってきますし、家庭では太陽電池なども普及し、結果として電力会社にかかる需要の全体量は低下します。すると顧客の奪い合いになって、質面倒くさい原子力などとは関わっていられなくなるわけです。
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いまや、原発推進派や維持派の言うことなど、全く説得力の無いものに成り下がっていますし、それは連中のいうことが素人の私ですら論破できる幼稚なものだったり、間違った前提に立っているものであるからに他なりません。しかし、実際には報道などを見ていますと、いまだに原子力産業は無言の圧力により守られている気がします。
日本から原子の火が消える日が近づいています。そのことは日本にとっては福音であることは間違いありませんが、正確には原子炉の火が消えただけであって、使用済み燃料という名の火は燃えないように冷やし続けなければなりません。浜岡は止まっていますが、今回同様の事故が起これば福島4号機のような事態には十分なりうるわけです。従って、真の意味で原子の火が消えるのはまだ当分先ということになりますし、それは少なくとも今世紀ではありません。しかし、ことによると原子炉の火も再開されてしまうかもしれないですし、事は日本だけの問題ではなく、この星全体の問題で、原発をどうするのかを考えなければならないと思います。
個人的には、原発再稼動の絶対条件とは、現在の対策に加えて、事故時の避難体制等の確立及び、放射性廃棄物の無毒化の手法の確立、廃棄物の処理(つまりトイレ)のめどがつくことが必須であると考えています。もちろんそれは現在の技術では無理ということなので、基本的に原発は全廃の方向で進めなければならないでしょう。それは、仮に発電コストが本当に安いとしても、変わることはありえないわけです。
シュベ3およびシュマ3 [クラシック音楽]
皆様、こんばんは。
クラシック音楽において、略語は良く使われます。「モツレク」とはモーツアルトのレクイエムのことです。でも、モツ40とかはあまり言わない気がします。主として交響曲では略語でベト7(ベートーベン)、マラ5(マーラー)、ブル8(ブルックナー)、ブラ4(ブラームス)、タコ8(ショスタコーヴィチ)、チャイ5(チャイコフスキー)、ドボ8(ドボルジャーク)等々。
敢えて略されないのは、ハイドン、ラフマニノフ、メンデルスゾーン、シューマン、シューベルトといったところでしょうか。前出のモーツアルトも、「モツレク」以外では略されません。勿論、私自身はこういった略語は嫌いです。大体、ベートーベンをベトと略すると、何かべとべとしたものやベトナム戦争が連想され、巨匠に失礼ではないかとおもうのです。しかし、一方略されないのもそれはそれで失礼ではないかという気がしてきました。メジャーな作曲家ではないから略されないのか?。しかし、上記の面々を見てみますと、そうではないように思われます。
ハイドンは略しようがない(ドン100?)。モーツアルトは略すると「もつ」煮のようになるし、敢えて略さない。メンデルスゾーンの場合は、「メンデル3もといスコットランド」ということで、副題がある場合が多いことと、やはり略すると分かりにくくなってしまう(メンデル・・・遺伝学者)し、不自然である。なぜ、スゾーンを略してメンデルとするのか?というわけである。いや、これを言ったら、作曲家を略する意味はすべてにおいてないことになる。
しかし、シューマンやシューベルトの場合はどうか?。「シュマ3」とか、「シュベ8」とか言っても良いのではないか?。それを言ったら、後にも先にも100曲以上交響曲を書いたハイドンなんかは、文字通りこの業界のドンではないのか?。「ドン94、奇蹟」とか言ってもいいのではなかろうか?。
などとどうでもいいことを考えつつ、今日久しぶりに聴いたのは、ヴァント指揮の「シュマ3」と「シュベ3」の入ったアルバムである。北ドイツ放送交響楽団、1991-92年録音(ライブ)である。
中古店で買ったのだが、何故買ったのか覚えていない。当時は「シュマ3、ライン」にはまっていた時期で、いろんな音源を聴きあさっていた時期であった。ヴァントのブルックナーがファンの間で流行であったが、私は敢えて手を出さずにいた。一方では、ヴァントをくそみそに言う人々もいた。そんな中、この頑固者のドイツ人の奏でるドイツ的(?)なラインとはどうだろうか?、しかも、普段聴くことのない「シュベ3」まで入っているのでお買い得ではないか!という感じだったと思う。
今日久々に聴いたのだが、この齢にして何とも瑞々しい!両曲。「ライン」は冒頭が肝心だが、弦の生き生きとした響きが聴くものをわくわくとさせてくれる。遅すぎず速すぎず、ともすればもたれがちな同曲を実に上手く料理している。特筆すべきはカップリングの「シュベ3」である。シューベルトの交響曲は5、7(8)(未完成)、8(9)(グレイト)の3曲がメジャーと思われがちだが、どっこい2番と3番も隠れた名曲で、聴いていて底抜けに楽しい楽想で、ヴァントの演奏もこの曲の魅力を余すところ無く伝えてくれる(月並みな表現しかできずに申し訳ありませんが)。80歳近くで、というと老人に対する偏見のようですが、演奏が実に若々しいのに本当に驚かされます。
興味深いのがこのライナーノートでのヴァントのインタビューである。この中に、フルトヴェングラーに対する批判がつらつらと述べられている。ヴァント氏いわく、作曲家の楽譜に決して手を加えてはいけない!ということらしい。フルトヴェングラーが、ベートーベンの交響曲のほんのごく一部に対して行った加筆に対してのコメントだそうなのだが、一般の聴衆には分かりようもないし、ベルリン・フィルの楽団員が「あれは良かった」と言っているのにも怒っている。いかにも頑固じいさんである。晩年まで人気が無かったのはこのためだろうか?。だとすると、ブルックナーはどれを演奏すればいいのだろうか(ハース版?)。
カラヤンともあまり仲が良くなかったというようなことも書かれていた。頑固者でアンチ・カラヤンの同時代のドイツ人指揮者というと、チェリビダッケと通じるものがある。しかし、演奏様式はヴァントとチェリでは全く正反対であることは言うまでもない。同じライン(=シュマ3)を比較しても、生き生きとして流麗なヴァント、悠然として豊穣なチェリ、どちらにも魅力がある(個人的にはチェリに軍配・・・ですが)。
話をシューベルトに戻すと、シューベルトは現代において不当に冷遇されている気はする。16年後の2028年に没後200年で新たなブームを呼ぶだろうか?。せいぜいシューベルトは「未完成交響楽」という人は、その先に進みにくいかもしれない。「未完成交響楽」はいかにも暗いので、2・3・5あたりを聴いて元気になったあたりで、最高傑作である8(9)番の「グレイト」に挑戦したい。ピアノ5重奏「ます」や珠玉のピアノソナタなど、室内楽に聴き所が多いほか、「スターバト・マーテル」のような隠れた名曲もある。もちろん、私自身シューベルトにそれほど詳しくないのですが、今日久々に「シュベ3」を聴いて、シューベルトの魅力を再確認した。本作曲家はまだまだ研究・発掘の余地がありそうです。
クラシック音楽において、略語は良く使われます。「モツレク」とはモーツアルトのレクイエムのことです。でも、モツ40とかはあまり言わない気がします。主として交響曲では略語でベト7(ベートーベン)、マラ5(マーラー)、ブル8(ブルックナー)、ブラ4(ブラームス)、タコ8(ショスタコーヴィチ)、チャイ5(チャイコフスキー)、ドボ8(ドボルジャーク)等々。
敢えて略されないのは、ハイドン、ラフマニノフ、メンデルスゾーン、シューマン、シューベルトといったところでしょうか。前出のモーツアルトも、「モツレク」以外では略されません。勿論、私自身はこういった略語は嫌いです。大体、ベートーベンをベトと略すると、何かべとべとしたものやベトナム戦争が連想され、巨匠に失礼ではないかとおもうのです。しかし、一方略されないのもそれはそれで失礼ではないかという気がしてきました。メジャーな作曲家ではないから略されないのか?。しかし、上記の面々を見てみますと、そうではないように思われます。
ハイドンは略しようがない(ドン100?)。モーツアルトは略すると「もつ」煮のようになるし、敢えて略さない。メンデルスゾーンの場合は、「メンデル3もといスコットランド」ということで、副題がある場合が多いことと、やはり略すると分かりにくくなってしまう(メンデル・・・遺伝学者)し、不自然である。なぜ、スゾーンを略してメンデルとするのか?というわけである。いや、これを言ったら、作曲家を略する意味はすべてにおいてないことになる。
しかし、シューマンやシューベルトの場合はどうか?。「シュマ3」とか、「シュベ8」とか言っても良いのではないか?。それを言ったら、後にも先にも100曲以上交響曲を書いたハイドンなんかは、文字通りこの業界のドンではないのか?。「ドン94、奇蹟」とか言ってもいいのではなかろうか?。
などとどうでもいいことを考えつつ、今日久しぶりに聴いたのは、ヴァント指揮の「シュマ3」と「シュベ3」の入ったアルバムである。北ドイツ放送交響楽団、1991-92年録音(ライブ)である。
中古店で買ったのだが、何故買ったのか覚えていない。当時は「シュマ3、ライン」にはまっていた時期で、いろんな音源を聴きあさっていた時期であった。ヴァントのブルックナーがファンの間で流行であったが、私は敢えて手を出さずにいた。一方では、ヴァントをくそみそに言う人々もいた。そんな中、この頑固者のドイツ人の奏でるドイツ的(?)なラインとはどうだろうか?、しかも、普段聴くことのない「シュベ3」まで入っているのでお買い得ではないか!という感じだったと思う。
今日久々に聴いたのだが、この齢にして何とも瑞々しい!両曲。「ライン」は冒頭が肝心だが、弦の生き生きとした響きが聴くものをわくわくとさせてくれる。遅すぎず速すぎず、ともすればもたれがちな同曲を実に上手く料理している。特筆すべきはカップリングの「シュベ3」である。シューベルトの交響曲は5、7(8)(未完成)、8(9)(グレイト)の3曲がメジャーと思われがちだが、どっこい2番と3番も隠れた名曲で、聴いていて底抜けに楽しい楽想で、ヴァントの演奏もこの曲の魅力を余すところ無く伝えてくれる(月並みな表現しかできずに申し訳ありませんが)。80歳近くで、というと老人に対する偏見のようですが、演奏が実に若々しいのに本当に驚かされます。
興味深いのがこのライナーノートでのヴァントのインタビューである。この中に、フルトヴェングラーに対する批判がつらつらと述べられている。ヴァント氏いわく、作曲家の楽譜に決して手を加えてはいけない!ということらしい。フルトヴェングラーが、ベートーベンの交響曲のほんのごく一部に対して行った加筆に対してのコメントだそうなのだが、一般の聴衆には分かりようもないし、ベルリン・フィルの楽団員が「あれは良かった」と言っているのにも怒っている。いかにも頑固じいさんである。晩年まで人気が無かったのはこのためだろうか?。だとすると、ブルックナーはどれを演奏すればいいのだろうか(ハース版?)。
カラヤンともあまり仲が良くなかったというようなことも書かれていた。頑固者でアンチ・カラヤンの同時代のドイツ人指揮者というと、チェリビダッケと通じるものがある。しかし、演奏様式はヴァントとチェリでは全く正反対であることは言うまでもない。同じライン(=シュマ3)を比較しても、生き生きとして流麗なヴァント、悠然として豊穣なチェリ、どちらにも魅力がある(個人的にはチェリに軍配・・・ですが)。
話をシューベルトに戻すと、シューベルトは現代において不当に冷遇されている気はする。16年後の2028年に没後200年で新たなブームを呼ぶだろうか?。せいぜいシューベルトは「未完成交響楽」という人は、その先に進みにくいかもしれない。「未完成交響楽」はいかにも暗いので、2・3・5あたりを聴いて元気になったあたりで、最高傑作である8(9)番の「グレイト」に挑戦したい。ピアノ5重奏「ます」や珠玉のピアノソナタなど、室内楽に聴き所が多いほか、「スターバト・マーテル」のような隠れた名曲もある。もちろん、私自身シューベルトにそれほど詳しくないのですが、今日久々に「シュベ3」を聴いて、シューベルトの魅力を再確認した。本作曲家はまだまだ研究・発掘の余地がありそうです。
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